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day2012-2-9


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澗仔壢の奮闘記録
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中壢は桃園県南部に位置し、地形は平穏な台地に属します。300年余り前、この場所は「青山番」と呼ばれており、現在の泰雅(タイヤル)族や少数の凱達格蘭(ケタガラン)平埔族が暮らしていました。その後、中国本土から多くの開拓者が訪れて土地を開拓し、中壢の平坦な台地で開墾を始めました。もともとこの土地に暮らしていたタイヤル族の人々はもっと南の内陸の山地へと撤退し、平埔族は徐々に漢民族に同化してゆき、新たな移民たちとこの土地の新興に努めたのです。

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「澗仔壢」の名前には2つの由来があります。1つは庄内に老街溪と新街溪が縦に流れており、2本の間を貫く間の土地を「壢」と呼んだと言われています。もう1つは、この土地が以前は北部の2大都市である竹塹(新竹)と淡水(もともと新莊、後に台北)の中間点であったことから、旅人がここで休息を取るようになり、このため「中」の字を取って「中壢」に改名したとされています。

 

 

 

康熙末年の陳増耀、さらに雍正の時代には恵来の客家人である黄風、饒平人である呉雨吉、頼永馨らが台湾の開墾を始めました。乾隆初期には、鎮平人黄梅生の三兄弟、鄭建儀の二兄弟、永定人である胡凱清と惠來人である傅仙桂らを含め、より多くの客家人が開墾に加わりました。乾隆30年(西暦1765年)前後にこの仲間に加わった福建漳州人である郭樽などは開墾の規模が最大であり、郭樽が大園を開墾すると、これに続いて同一族が南崁、桃園地域へと進み、最終的に中壢へと到達しました。このころ建設された橋や道路は現在の中壢の重要な基礎となったのです。開拓民たちはこの一帯に村を起こし、澗仔壢庄と名付けました。

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点検日付:2010-12-13